たまゆらのなかのとわ

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障がい児を授かって

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なぜ私の所に障がいのある子が生まれたのか と考えた事はない(なぜ私なのよ的な考えと言うこと)

これはハッキリ言える

なのでそこに意味を見出そうとした事も 極端な話 皆無だ

極端と言ったのには これは世の中との関わりにおいて どうしても

そういう次元での話が必要になるし 考えを聞かれる場合があるからだ

しいて言うなら 子の苦しみ(肉体的)に対して同じく苦しい どうにかしてあげたいと言う気持ちは強い

その中での葛藤はある しかし

前にも述べたが スプリチュアルや宗教的な分野で 納得しようとは思わない
(その方法を選ぶ方を批判しているのではない)

母である自分に何かを教えに生まれた と言う考えもある様だが いささか自己愛が過ぎないか?

子の人生もあると言う矛盾を 血脈という生物学的切り込みで説得するのも安直すぎる


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私には必要がないのだ 

それは心から子ども達の存在を認めているし どんな子ども達であろうと

親が子を愛する事に 存在以外に必要なものがないからだ

もし 子どもたちにとってより良き人生と言うものを 

親である私が提供してあげる事が義務ならば それはどういうことか

この社会に適合する為に 無我夢中で彼らに何かを押し込めるのか

軽度の障がいである次男には 少なからずこの社会に適合する力があるだろう

よってこの考えも有効なのかも知れない

しかし 娘の場合はまったくもって当てはまらない


この「当てはまらない」と言う事には 少なからず疎外感は感じる

しかしこの社会に当てはなまらない という事をもって「不幸」とも思わないのである

それは健康で長寿が「幸せ」で その逆が「不幸」と言った単純な価値観が

私には備わっていないからだ 

きっとこの意味を理解できる方も少ないだろう 病気や死は不幸に決まっているのだから

書き足りないが きょうは睡眠不足なので ここまでにします

エッセンス的参照
重度の先天的障害のある野生チンパンジーの赤ん坊の発見 — 京都大学







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