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たまゆらのなかのとわ

絵と詩  文 音楽 本 在りのまま 

ちょっと解説っぽく

「詩」というものは それぞれがそれぞれの宇宙に発生したものを 持ち帰れば良いのだと思います
今回は自称「詩」という私の未だその域ではない活動故のナンセンスを
お許し頂けると幸いでございます

「春と阿修羅」には賢治先生の「春と修羅」にもじっています(大変恐れ多いのですが)
阿修羅とは阿修羅道の意 仏教における六道は 私などは個々に存在すると考えております
そしてその個々が関わるコロニーにも存在し そのコロニーが関わる地域等 
そういう関係性が幾重にも重なり 全体があると考えています

六道とは縦にあるものでもないと考えています(階級ではない)

阿修羅は争いを好みますが 地獄の様な世界を作るものではなく あくまでも己に帰結する
とウィキにもありますが 私もそれに同意であります

事故的な自然悪でさえ それらから受けた被害であれ 最終的に帰結できるのは己のみであります
恨みの念を温存することは その悪に(切り取れる 又は学びのきっかけにもなりうる)蝕まれるということで
これでは完全なる負けで 永久に被害者のままであります

それは己が所属するところの六道の地獄道や餓鬼道・畜生道に傾倒していることになります
相手が完全なる悪だとしても 私たちの魂が捥がれたとしても
そこに生があるのであらば 残された魂からはいつでも愛という泉は湧き出でると信じています
愛を愛であると感じることができるのは その反対があるからであり
そうでなければそれはただの「常」であり またそれが悟りなのではないでしょうか

コロニーにおける六道の阿修羅道は地獄・餓鬼・畜生道の入り口であり
その岐路に立つには個々己の中の六道のどの道を選ぶかでほぼ決まります
ほぼとお茶を濁したのには訳があり 完全なる宇宙の営みとも言えるフラクタルの世界でさえ
その旋律は完璧ではなく そこには揺らぎが存在するからです

西洋では一神教で善悪の立場はハッキリしております
それは医学の世界にも表れています
悪は憎むべきもので排除するべきものなのです

しかしながらこの日本では神はあらゆるところにあります(仏教もしかり)八百万の神です
大自然の営みを全体として受け捉える宗教観を養う精神の苗床の様な概念です

今では日本人の精神も西洋に傾倒してしまっています
私がこの「春と阿修羅」という詩に込め 対比したものは 大自然の寛容と人間の浅はかさ

人間のご都合主義社会への皮肉もあります
この自然に生かされている立場でありながら 
春のみぞ貪り称賛する人間の残酷なまでの拙さや幼児性です

春の野に潜むマムシも生きることを許されている
人間の言う残酷の極みカッコウでさえ この自然は抱いて調和しています
私はその寛容が人間社会にないことに深い悲しみを感じます

罪とは 暴力や略奪や虐待だけではありません
最も重い罪は その吐出した解りやすい悪よりも
世の中が欺瞞に満ちていることです
そしてその欺瞞をも通り越し それらが本当の善だと思い込んでいるところです

解りやすい暴力的な悪よりも恐ろしいのは
まぎれもない欺瞞です それらはいつも美しく装っています
その危うさと春とを重ね対比しました




お読み下さった奇特な方がおられましたら
感謝致します