たまゆらのなかのとわ

絵  詩のようなもの 声 共時性 日記 時世

次男発達障がい

彼の場合は軽度の学習障がいがあります
コミュニケーションは問題ありませんが 性格がキラキラボーイ故に
今時の田舎の体質には馴染めずにいます

田舎の体質とは 要するによそ者に冷たいという事です
子どもであれ赤ちゃんの時からお互いを知っているという身内体質があります

そして次男のキラキラ度はどのくらいのものかと言いますと
小さい頃は道々出会う人全てに「こんにちわぁぁ☆」と満面の笑みで挨拶する子でありました
そして相手の反応によっては 楽しく、それは幸せそうに話しかけることもありました

がしかし この田舎では半数以上が この幼気な幼児(当時)にさえ冷たいのであります
次男が「こんにちわぁぁ☆」と挨拶をしても 例えば同じくらいの親子なんかだと
子が「誰?」と言います そして母が「さぁ」と言ってそれはそれは冷たい目で通りすぎます

幼稚園でも殆どが顔見知りです そして何をそんなによそ者に敏感なのか
時代錯誤も良いところ 私たちがバテレンにでも見えるのでしょうか
そういった環境は小学校でも続きます

そんなこんなで10年超え 途中 次男の障がいが発覚し支援クラスへ通級するや
彼等の認識するところの「異質」への冷たさは拍車がかかり
とうとう次男のキラキラも劣化してしまったのです

彼は学校へ行くと虚勢を張らなくては対等ではいられなくなり
そのことでとても疲れ果ててしまいました

次男のキラキラは疎ましくさえ扱われ その居場所は極限られてしまったのです
学校から帰ってくると悪くなっている時期もありましたが
それは諭し話し合い 彼自身自分が無理をしていることが
本心ではないことを十分知っているのです
諭すことすら酷であったと思います・・・

それでも何を悪者にして良いかわからない様子で あまりのキラキラに親としては
危険すら感じずにはいられなくなりました

これは単なる加害者被害者の問題ではなく
生きる上で 何を重視するか 何を選択して生きてゆくかと言う
ある種 種の違いの様なものではないのか・・・

敵と認識することは戦うことになります
相手は多勢でも その手段は無関心と 時に見下しとダメ出し・・・

次男を被害者弱者と認識し それらをいっぱいに主張することも出来るでしょう
しかしこれはある意味 自分たちの誇りを捨てる事にも等しいのです

それでも社会からは合法の差別(皮肉です)を受け どちら付かず(健常か障がい者か)と
判断されるにもかかわらず そのレッテルを貼るだけで 支援策は幻のような紙切れで
劣るとされる少数の子は その個性を重視されるどころか 多数に如何に近づくかを
無言のうちに強要されているのが現実です

社会の闇は学校で作らていると感じずにはいられません
これが世界で善良で礼儀正しいとされる日本人の社会です

多様性という言葉が空しく聞こえます

私たちは何を選択すべきでしょうか
それはもう心に決めてありますが ここではまた

そして遠藤周作の「沈黙」が甦りました
このことも次回に





















☆誤字脱字チェックしておりません 不備ご容赦下さいまし